【現代に息づく伝統文化】民工を信用した王さんの話

【大紀元日本3月16日】2月27日の午前、長春市万宝通りに住む王さんの家に配管工がきてトイレの詰まりを直していたところ、職場から電話があり、王さんは急いで出かけなければならなくなった。そこで、出かける前に、彼女は配管工にこう言った。

「すみませんが、職場に用事ができたので出かけてきます。作業が終わったら客間で一服して下さい。工賃は、テーブルの上に置いておきます。テーブルには、煙草も飲み物も用意してありますから、ご遠慮なさらないように。引き上げるとき、玄関のドアを閉めておいてくれればそれで結構ですので」。

王さんの話に配管工はとても感動して、「奥さん、私を一人家に残して作業させてくれるのは、奥さんが初めてです」と言った。

王さんが帰宅した時、配管工はすでに去っていた。しかし、テーブルの上の工賃はそのままで、お金の下には書置きがあった。「奥さん、私を信用してくれてありがとう」。

アメリカの元大統領・ルーズベルトはかつてこう言ったことがある。「信義のある人になるのは、名声のある人になるよりも勝る」。

王さんは、この町のごくごく普通の市民だ。しかし、彼女は自らにとってはごく普通の行動を通して、一つの不変の真理を実証した。「誠意をもって人に接すれば、誠意でそれに応えない者はない。人との和やかな関係を築くには、まず自分から始める」というものだ。

どんなに急いでいたからと言っても、その配管工がどんな顔をしていたかじっくり見ることもせず、ただ、「身長は170cmくらいで、年齢は30歳位、河北訛り」ということぐらいしかわからないわけだから、王さんの行動はあまりに唐突に思える。しかし、彼女は社会の底辺におり道端で日雇いの仕事を探しているこの配管工を尊重し信用することによって、配管工の誠意ある応答を勝ち得たのである。

これはずっしりと重い信用であり、お金で量ることのできないものだ。

社会が経済的な転換点に直面しているような時には、人を信じるのが難しくなる現象が起きて、人々は防犯意識にとらわれ、一方の極端に走りがちだが、一切を疑い一切を否定して、誰に対しても何に対しても警戒するようになってはならない。

しかし、これは、否定することのできない社会の現実でもある。日雇い労働者を雇った家庭は、まるで泥棒を見るかのようにその労働者を監視し、基本的な礼儀に欠けたり、失礼なことばで対応したり、やたらと要らぬ疑いをかけたり、なんとかして手間賃をけちろうとしたり、人格を酷く犯したりして、間違いなくその労働者の心を傷つけ、個人に対する信用を著しく喪失している。

経験的な教訓が示す通り、尊重と信用は双方向であり、一方通行ではありえない。中国の人々は古来、「あなたが私を一尺敬えば、私はあなたを一丈敬う」ということを重んじてきた。なぜなら、他人を尊重し信用するということは、自らを尊重し信用するということに他ならないということを知っているからである。

人との和やかな関係を築き上げるには、まず、自らが身辺の小さなことから始めるのが大切であって、決していつも他の人にまずやるよう求めてはならない。一歩退いて言うなら、「思う念力、岩をも徹(とお)す」ということである。

相手が善人でなかったり好意を抱いていなかったとしても、誠意を以って接すれば、感化することができるかもしれないが、それに反すれば、相手の下劣な心理によけいに油を注ぎ、予想外の事態を引き起こしてしまうことになるかもしれない。

良好な人間関係は、調和のとれた和やかな社会の基本的な要素だ。人は社会生活の主体であり、さらには調和社会の主体でもある。社会の中で詩情溢れる穏やかな環境を造りだそうと思えば、互いに友好親善であり、相互に助け合い、公明でおおらかであり、誠意を以って人に接しなければならない。

実は、調和のとれた和やかな人間関係の環境は、道徳と法とで造りだすもので、その道徳的な核心は誠意と愛である。それゆえ、調和社会を構築するには、相互に尊重し、相互に気遣い、相互に協調し、相互に促進する平等の友愛と、和やかな人間関係の環境を形成しなければならない。王さんが見の知らぬ配管工に対したように。

信用とはある種の生命を持った感覚であり、ある種の高尚な情感であり、さらにはある種の人と人の間を繋ぎ止めるものである、といわれる。ならば、私たちも王さんのように、相手の身分の高低、貴賤にとらわれず、自分がかつて接した全ての人や事に善で接し、社会の到るところで心が溶け合い、愛が溶け合うようにしなくてはならない。

(紅網から転載)

(翻訳=太源)