岳飛――岳飛の物語(三)【千古英雄伝】

紹興4年5月下旬から7月中旬にかけて、岳飛は諸将を率い襄漢を平定し、襄陽など六郡を宋朝に奪還した。 岳飛が考えた中原の拠点復旧計画は、わずか70日間程度で実現した。

襄漢の乱の平定後、岳飛は制置使の職を辞する申し出をしたが、宋高宗皇帝は許さなかった。 宰相の趙鼎が彼を強く推薦し、高宗は岳飛に襄陽府各州の指揮を任せた。 同年8月、岳飛は清遠軍節度使、湖北路、荊、襄、潭州制置使に昇進し、さらに武昌県開国子の称号を受けた。 翌年、岳飛は武昌郡の開国侯爵となり、母は国夫人となった。岳飛は当時32才であった。

紹興7年、岳飛は太尉に任命され、都である建康(南京)に赴任した。 宋高宗皇帝は岳飛を皇居に呼び寄せ、「あなたに再興を任せる」と言い、再興の仕事を託した。 しかし岳飛が再興の大業を果たそうとしたとき、裏切り者の秦檜が下心をもって和議を唱え、北伐の先頭に立つ忠臣の岳飛を貶めた。

岳飛は失敗なくほとんど勝っていた。彼の軍隊はよく訓練され、規律正しく、「凍死しても百姓の家に侵入しない。餓死しても百姓の糧食を略奪しない」ので、民衆に愛された。

紹興十年、金の将軍、斡啜は他の王を集め、軍を率いて郾城と穎昌の地に入ったが、兵力の離れた岳飛に惨敗した。 岳飛は岳雲を精鋭騎兵の先頭に送り、金軍と戦い、21歳の岳雲に「もし勝てなければ、まず処刑だ!」と警告した。 岳雲は数十回にわたり軍を率い、戦場のあちこちに敵の死骸を残していった。

岳飛をはじめ岳家軍は非常に勇敢で機知に富んだ戦いで、斡啜将軍が自慢する攻略鎧重装備の「鉄浮図」と「拐子馬」も岳家軍と遭遇し、敗北を喫した。岳飛は歩兵に長刀を持って戦う様に指示し、陣に入らせ、馬体や上の人は見ず、目前の馬の足を狙い、たたき切り、馬の陣形を崩し、金兵を混乱に陥れた。 空一面の砂塵の激戦中、岳飛は40騎を率いて陣に突入し、軍の士気を大いに高揚させた。一度も負けたことがなかった斡啜将軍の「拐子馬」陣形は、この時から失敗が始まった。

斡啜将軍は郾城の攻撃失敗後、すぐに穎昌を攻撃したが、それは岳飛の予想通りで、岳飛は前もって岳雲を派遣し、精鋭部隊と騎兵を率い守備側の将兵を支援した。岳雲は騎兵を率いて先に敵を迎え撃ち、歩兵は左右の側面から守り、戦いに完勝した。斡啜は逃亡した。 金兵は岳飛に何度も苦しめられ、岳軍に遭遇すると震え上がり、「山を揺るがすのは簡単だが、岳家軍を揺るがすのは難しい」と嘆息して戦わずして降伏したこともあった。 

同年、岳飛の支配下の太行山の忠義社の梁興は大成功を収め黄河を渡り、中原に吉報をもたらした。岳飛は梁興たちが川を渡ってきたこと、そして朝廷に戻る意思があることを報告した。 金軍は多くの戦いに敗れ、斡啜たちは北地に退却した。今はちょうど中興のいいタイミングだと上奏した。

岳飛は北宋の都、汴京からわずか20kmあまりの朱仙の町に進軍し、斡啜に立ち向かった。 岳飛は強く勇ましい大将を派遣し、500騎の背嵬軍(騎兵)を率い敵の斡啜を撃破した。岳飛たちの中興の戦いの成功はすぐそこだった。 

しかし残念なことに、闇の勢力が岳飛の軍隊に襲いかかった。 

(翻訳・李明月)