当時、趙匡胤は周世宗の下で、勇敢に戦い多くの軍功を立てました。その名声はますます高くなりましたが、彼は出自が低く戦に必要な鞍や、衣類、道具を用意することができませんでした。張永徳はしばしば家のお金と物資を使い彼を助けました。
張永徳は、趙匡胤は優秀で輝かしい戦いをしたと感じていました。彼の年齢を尋ねると、亥年の生まれで、猪年でした!張永徳は大変喜び、以来、心を込めて彼に仕えました。使う物はすべて2つ用意し、趙匡胤が必要なら直ちに届けました。
その後、趙匡胤の弟・趙匡義が結婚を考えますが、相手は大家の娘・符氏でした。趙匡義は「符氏は裕福な家で、私たちは貧しくまともな結納を出せない。どうしよう?」と相談しました。
趙匡胤は弟に、「張太尉(張永徳)は私と仲が良い。彼のところに行き事情を伝え、助けを求めなさい」と伝えました。
趙匡義は太宗の手紙を持ち永徳(張永徳)の所に行きました。永徳は彼を奥の部屋に迎え入れました。 彼は趙匡義の顔が他の者と違っている事に気付きました。そこで彼の年を尋ねると、また亥年に生まれでした!永徳は再び驚き、援助のために家の中の物すべてを取り出しました。
趙匡胤は北宋王朝を設立し、帝位に就き、皇帝になりました。張永徳を兼侍中に任命し、武勝軍節度を授けました。
ある時、個人的な恨みを持つ者が、張永徳が反乱を企んでいると誣告しました。宋太祖は「張永徳は反乱者ではない」と言い、その者に手錠をかけ、張永徳(張永徳)の所に連れて行きました。
永徳はその者に「お前は私を反乱で訴えた、いい度胸だ!」と言いながら、手錠を解くと、何回か殴り、解放しました。宋太祖はそれを知りとても喜びました。
宋太宗は帝位に就いた後も張永徳を優遇し、太平興国六年、鄧国公に任命しました。
宋3代皇帝・真宗は帝位に就くと、張永徳は衛国公となり、 契丹が侵入したとき張永徳を奥の殿に呼び、席を与え、辺境の防衛の相談をし、彼に東京留守という重要な任務を与えました。
皇帝は端拱三年、検校太師、彰德軍節度、知天雄軍等の役職を授けました。張永徳は73歳で亡くなり、真宗は棺桶を保護して首都に戻し、葬式も盛大にしました。
張永徳と宋太祖と宋太宗との間の奇縁は冥々の中に運命づけられ、得道した書生は彼のために扉を開きました。
(翻訳・李明月)
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