騙されても反論せず、庾詵は極楽往生

あなたの所有する財産を、他人に自分の財産と主張されたとき、あなたはどう反応しますか? 怒り? 反論? 通報? 南北朝時代に、庾詵(ゆしん)と呼ばれた高潔な男の反応は、多くの人が予想だにしないものでした。

ある日、庾詵は150石の米を積んだ船で田舎から家に帰ります。その時ある者が彼に、ついでに30石の米を家に持って帰ってくれと頼みました。彼はためらわず同意しました。

家に着くと、依頼人は「貴方の米は30石で、私は150石頼んだ」と言いました。これを聞いた庾詵は一言も反論せず、150石の米を渡しました。だまされたのに全く怒らない彼は、並外れた人物でした。

庾詵とはいったいどんな人でしょう?庾詵は新野県(現在は河南省)に生まれ、子供の頃は賢く、読書が好きで、経書と歴史のことは何でも知っていました。それだけではなく、讖緯[1]、占い、射御、囲碁、算術、技術などにも精通していました。

非常に才能ある庾詵は、穏やかで素朴な気質で、山、森、泉、石などの自然の創造物を愛していました。 彼の家の敷地は10ムー(1ムーは約6.67アール)ほどの面積があり、その半分は岩や池です。生活は簡素で、質素な食事をし、古い服を着て財産の管理などは考えていませんでした。

ある火事の時、庾詵は本が燃えないよう竹かごの中の本を池に入れることだけに専念しました。このことから、庾詵が最も大切にしていたものが何であったかは、容易に想像がつきます。しかし、貧しい隣人が泥棒の濡れ衣を着せられて有罪になったとき、庾詵は自分の本を担保にして2万銭を調達し、自分の弟子にその隣人の親戚のふりをさせ、親戚に成りすました弟子は被害者にお金を弁償しました。

庾詵のおかげで免罪された隣人は、庾詵にお礼を言いに来ました。庾詵は、彼の負担にならないように、「私は世の中の罪なく罰せられた全ての人々に同情し、他人からの感謝は期待しません」と言いました。
 

写真は、明代の謝時臣が描いた「麥舟兼贈圖」の一部です。(パブリックドメイン)

梁王朝の創始者の梁武帝は、幼い頃から庾詵と付き合い、その才能を高く評価していました。挙兵後、庾詵を平西府の記室参軍[2]に任命しましたが、庾詵は辞退しました。その後、湘東王が荊州に来て、庾詵を鎮西府の記室参軍に任命しましたが、彼は同様に拒否しました。梁武帝が皇帝になった後、庾詵を黄門侍郎[3]に命じましたが、彼はまた病気を理由に拒否しました。

晩年になると、庾詵は仏教に専念し自宅に道場を設け、毎日仏像の周りで礼拝し悔い改め、昼夜を問わず熱心に経を唱えました。

ある夜、彼は突然、自称「愿公」という僧侶に会いました。その僧侶は、見た目も行動も普通の人とは異なっていました。彼は庾詵を「上行先生」と呼び、お線香を渡して去って行きました。

中大通四年(533年)庾詵は昼寝の時、突然目が覚め家族に「愿公がまた来た。私は長くはこの世にいられない」と言いました。そう言い残し、顔色一つ変えず、78歳で亡くなりました。彼が亡くなった時、家族全員が、空で誰かが「上行先生は極楽浄土へ行った」と歌っているのを聞きました。

梁武帝はそれを聞き、「善行や功徳心は前代皇帝が大事にしていたことだ。新野の庾詵は荆山の宝石、江陵の杞梓のように盛名と功徳心を持っている。突然亡くなり悲しい限りだ。諡号貞節処士を授け、彼の高潔な節操を称える」と語りました。

庾詵は、後世に著書「帝暦」20巻と「易林」20巻を残しました。彼の息子・庾曼倩と孫・庾季才は学問や德行にも優れ、評判も良いです。庾詵が言葉と自らの行いで教育した以外に、善行を行い、功徳を積んだことのご褒美ではないでしょうか?

参考資料:『梁書』『南史』

注[1] 讖緯(しんい):未来の吉凶を予言する術。また、その書物。
注[2] 記室参軍(きしつさんぐん):軍隊の文書の起草や記録認識などの重要な仕事を担当する役職
注[3] 黄門侍郎(こうもんじろう):皇帝の勅命を伝達する官職

(翻訳・李明月)