【党文化の解体】第2章(9)「天に対する畏敬を批判する」

2.伝統的観念を批判する

 「天の運行は健やかにして、君子もって自ら強めて休まず」「地の勢いは坤なり、君子もって徳を厚くして物を載せる」。易経の冒頭にある二つの卦には、中国人の天地に対する態度が現れている。君子は、天道に従ってこそ自ら強くして休まず、従順で深く厚い道徳をもって万物を承り載せるというものだ。

 人に対しては即ち、真心を持って信頼し合い、仲睦まじくし、他人の身になって物事を考えることを重んじる。自分の家の年寄りに対する尊敬と自らの子供に対する愛情は、すべてのお年寄りと子供にも及び、所謂「信を説いて、睦を修める」、「他人の老人にはわが老人のように接し、他人の子供にもわが子のように接する」というものであった。

 「天地人」の 三才が定まり、伝統的な観念の根本も決まっていた。中国人は、天を敬い、地を敬い、神を敬い、先祖を敬い、これによって日常生活の処世の道もまた形成され、代々伝わって来た。

 しかし共産党は、「共産党宣言」で「伝統的な観念とは徹底的に決別しなければならない」とした。伝統的な観念に対する批判は、中国人の生活から伝統文化と信仰を徹底的に取り除くのに必須な手続きであった。

 中共は政権を立てた初期から、 「社会発展史」教育を通じて体系的に全人民を洗脳し、中国がおよそ百年の間に列強の侵略を受けた原因が、伝統文化から来る「立ち後れ」「愚昧」であるとして、伝統的な社会を「腐敗して沒落した」古い社会として描き、伝統的な観念の中の信仰部分を 「愚昧と迷信」と称し、その中の道徳部分を「人食いの礼教」だとした。

 このように中国人民の民族自尊心と自立の念願を利用し、中共は全国的に所謂「封建迷信を打破する」運動を発動し、「古い風俗と習慣を直そう(移風易俗)」というスローガンを打ち出して、一切の伝統的信仰に関係する民間活動を途絶させた。

 同時に中共はまた伝統的な観念が「封建的な統治者」の代わりであり、人民を痲酔させる政治道具だとして、「人々を搾取される生活に満足させるようにした」と批判し、伝統的な社会秩序を、民を圧迫する 「封建種族制」「封建専制」と同じであると批判し、伝統文化を根絶する運動を政治のレベルにまで発展させた。このようにして大規模な大衆運動を通じて、民間で相変らず維持されている伝統観念の言語と行為を「監督」「検挙」「摘発」して、それを根絶する目的に到逹した。

 ここで、中共に批判された伝統的な観念の例をいくつか見てみる。

 2-1) 天に対する畏敬を批判する

 中国人は、かつて一貫して天を畏れ敬ってきた。たとえ明確な信仰がない人でも 、神様(老天爺)を信じていた。中国人の伝統観念の中では、天はたとえ形象がなくても、知らないことはなく、存在しないところのないものであった。

 

(イラスト=大紀元)

王朝の末期あるいは社会が普遍的に堕落した時、天は災難を振りかけるが、その前に警告をする。所謂「天が象を垂れ、その吉凶を見る。聖人はこれにしたがう」というものだ。

 

 天子は即位後に、天を祀る礼を行う。毎年、正月の15日と冬至には、天子は天壇に赴き天を祭った。これは、天を敬っていた現れである。

 政治生活の中で、「天」は国を治める法則を明示した。孔子は 、「徳をもって政治をなす」と説き、北極星が本来の位置にあってあまたの星々を従えているというふうに譬えた。日常生活の中でも、「密室でささやく言葉も天は雷のように聞く」といい、兵法、建築、楽器なども皆天の規則を体現していた。たとえ反乱を起こすにしても「天の代わりに道を行う」という大義がなくてはならなかった。

 「天」に対しては、伝統観念の中では畏敬の念だけがあったのが、ただ共産党だけは「天」に対して闘争を行った。

 天に対する敬畏が人に対する道徳を繋ぎ止め、人命がかけがえのないもの(「人命関天」)という考えは生命の貴重さを表し、天人合一の考え方は自然を保護するのに有効であった。

 ただ、これらのものすべてが共産党の殺人と環境破壊にとって邪魔になり、共産党は逆に殺人にたよって人を恐怖のどん底に突き落として屈伏させ、「天と戦い地と闘う」という大言壮語を吐いて民衆からの崇拝を手にし、人々の自然を破壊する決心を引き出さなくてはならなかった。

 毛沢東は、「私は、坊主が傘をさしたようなものだ。法もなければ、天もない(髪の毛を意味する「髪」と 「法」の発音が似ており、傘をさしているので天はなく、自分勝手に悪いことをしても法も天もないことを比喩する)」と言ったことがある。

 これは本来、大胆不敵に悪事を働くことを貶すために用いられる「法もなく天もない(無法無天)」いう言葉であったが、勇敢さを称える褒め言葉にすり替えられ、人々をたきつけて「法もなく天もない」政治闘争と環境破壊へと駆り立てた。

 2-2) 運命と善悪応報の考えを批判する

 中国人は、「天」に対する敬畏の中から「天命」という考え方を派生し、「善悪応報」という考え方にいきついた。

 中国語の「運命を認める」という言葉を、中共は困境に処して消極的で、なすすべがないという意味に解釈したが、実は、この言葉の本当の意味は、「人事を尽くして天命を待つ」あるいは「事を図るは人にあり、事を成すのは天にあり」ということだ。

 孔子は、「死生は天にあり。富貴は天にあり。」といい、54歳の時に魯国の司法を司る高官を辞職し、14年間も各国を周遊し王道を広めた。彼はできないということを確かに分かりながらもそうしたのである。ここには、消極的に世の中から逃避するという意味はない。

 個人生活の中で 、「運命を認める」という思想は決して個人的な奮闘を否認するものではなく、ただ人生の中にはどうにも逆らうことのできないものがあるということだ。さらに一歩進んで言うなら、伝統観念の中では人の運命は、前半生さらには何世代も前に行った善悪によって決まる善報や悪報によっているというものだ。

 このため、「運命」はまた「善悪に応報あり」、「福報」、「悪報」と関係付けられてきた。『易経』にいわく「積善の家、必ず余慶あり。不善の家、必ず禍あり」。このような考え方によって、人々は熱心に善を行うようになった。自分の将来のため、あるいは子孫の代のために功徳を積むのだ。

 「善悪に応報あり」はまた、「頭上三尺に神あり」に基づいている。人の私的な言葉も天は雷のごとく聞いており、暗い部屋の中で心を欺いても神の目には稲妻のようだ」 などの考え方を基礎にしている。運命と応報を信じれば、人々は熱心に善を行うようになり、欲望にとらわれにくくなり、天に従って行い、一時の快楽にまかせて後の結果を顧みないということもなくなる。

 このような思想はなおかつ、人々が運命の中に天意があることを信じるよすがとなった。「人心に一念が生じれば、天地の必ず知るところとなり、善悪に報いがなければ、乾坤は不公平である」という考えはまさにその通りである。

 歴代王朝の交替について言えば、中国は文字を保有して以来、後代の歴史的大事件を予言していた。その正確さは人々を驚かすのに十分なものであった。この「天意に従い、この隆盛な時運を承る」という天命観は帝王執政の合法性を意味するものでもあった。

 ところが、中共は、 「運命」と「応報」を 「封建的迷信」だと批判し、こうしたことを題材にする演劇の上演と宣伝を禁じてきた。その根拠は、実証することができない 「進化論」と「歴史唯物論」という仮説だ。もし国民が報いを恐れるなら、絶対に中共の悪行には追随しないということを、中共は明らかに分っていたからである。

 (続く)