【中国のことわざ】凡桃俗李

【大紀元日本7月18日】元の時代の著名な詩人・画家の王冕(おうべん、1310-1359年)は、常に自分を花に喩え、よく梅花を題材にして作詩した。

彼が描いた梅の絵は枝葉が密に茂り、梅花には気骨がある。とても活気に溢れ、不屈な性格が表れている。

一枚の梅の水墨画に、王冕は次のような言葉を添えている。「凡桃俗李争芬芳、只有老梅心自常」(俗気のある人は名利を追求するが、梅花のように品格のある人は正常心でいられる)。

30歳の時、王冕は科挙試験を受けたが合格せず、あきらめた。その後、彼は見聞を広めるために、杭州、南京、太行、徐州まで遠遊し、最後に大都(北京)にたどり着いた。当時の礼部尚書は王冕の絵が気に入り、彼を翰林院(かんりんいん)に推薦しようとしたが、王冕は拒否した。

40歳の時、王冕は会稽(かいけい)という場所にある九里山で三軒の草屋を建て、周辺に梅と桃と杏の木を数千本、栽培した。昼には耕作し、晩になると絵を描くという清貧な生活を送っていた。友人の李孝光(著作郎)は彼を官吏に推薦したが、王冕は「私には耕作する田があり、読む本もあります。わざわざ役人になって他人に使われる必要なないでしょう」と再び断った。

ある日、王冕は、ぼろぼろの服を着て、破れた靴を履いたままで同郷の王艮を訪れた。王艮はずっと彼の品行に敬服していたので、この格好を目にして、彼を役人になるように勧め、新しい靴を贈った。王冕は無言で笑い、靴を置いて立ち去った。

王冕は、私利私欲をむさぼる人間の欠点を見透かしており、功名は幻だと分かっていた。出世するより、絵を売って生活を営む道を選んだ。芸術家の節操を固く守ったのだ。

「凡桃俗李」は、俗っぽい人、あるいは平凡な物事の喩えに用いられる。

(翻訳編集・李頁)