「二十四孝:舜帝」 道徳の始祖

は中国古代の五帝の一人で、姓を姚、名を重華、号を虞氏といい、虞舜と称された。

 舜は幼いときに母を亡くした。両目を失明した父・瞽叟(こそう)は後妻を娶り、弟・象が生まれた。舜の父は頑固で道理をわきまえない人であり、継母は粗暴・残忍で、弟も横柄で理不尽であった。三人は舜を疎ましく思い、何とかして殺そうと考えた。

 ある日、父は舜に米蔵を修理するよう命じた。舜が蔵の屋根に上がると、父は舜を殺そうと、米蔵に火を放った。舜は笠を二つ手に持ち、小鳥のように飛び降りて、難を逃れた。

 次に、父は舜に井戸を掘るように命じた。舜がかなり深くまで掘ったところで、父と弟は上から土を落として井戸を埋めた。気転を利かしてあらかじめ側道を掘っていた舜はそこから逃げ出し、今度も難を逃れた。象は今度こそ間違いなく財産を独り占めできると思っていたが、舜が帰って来たのを見て、みな大いに驚いた。

 そのような仕打ちを受けたにもかかわらず、度量の大きい舜は、あいかわらず、両親を敬い、弟をかわいがった。

 古人は「百善の中で孝を第一とする」とはよく言ったもので、舜は20歳にして、その名が天下に知れわたった。舜が30歳のとき、帝は賢才を求めた。すると、周りの者がみな舜を推薦した。

 そこで、尭帝は舜の人徳を見極めるため、二人の娘を舜に嫁がせ、九人の子供に舜と親交を結ばせた。「徳を以って人に報いる」という舜の人徳に感化された二人の娘は、傲慢な態度が改まり、人に対して謙虚で恭しくなった。九人の息子も、舜の感化を受け、寛大かつ慎み深くなった。

 舜が暦山へ開墾に行くと、そこの人たちは舜の影響を受けて心が広くなり、舜に田畑を提供した。舜が雷澤へ魚を取りに行くと、人々は競って住まいを提供した。舜が黄河のほとりへ陶器を作りに行くと、そこから出される陶器は極めて精巧なものになった。

 誰もが舜と一緒にいることを好んだため、舜が住んでいるところは、一年で村になり、二年で街ができ、三年で大きな都市になった。

 この一部始終を見た尭帝は非常に満足し、帝位を舜に譲った。帝位についた舜は、とりわけ道徳教育を重んじ、五常の教え、つまり、「父の義・母の慈・兄の友・弟の恭・子の孝」を唱え、中華民族の伝統的な道徳の考えを築き上げ、中国人が従うべき典範とした。

 その後数千年来、舜の打ち立てた「徳を以って第一とする」という伝統は、孔子の儒家文化に受け継がれ、その後の中国人を教え導いてきたのである。