私がここ東京で個人タクシーなる人間稼業をするようになり、早数日が過ぎた。季節は蒸し暑い夏を迎えようとしている。午前中の陽気が満ち溢れ、油蝉がジィージィーと泣き始める頃、私はいつものように天空の雲の裂け目から金遁雲号に乗って降りてきて、明治神宮外苑のあたりでこれを物質化した。すると、表の大通りからいい白湯の匂いがしてきた。ふと日本人たちが好む柳麺などを食してみたくなった。
もとより故郷の中国神仙境で天丹を極めた私にそのようなものはすでに要らないのだが、繁華街を見ると覗いてみたくなるのだ。外苑の大通り近くには、いつもの如く、繁盛店に同業者たちが列を作って順番を待っている。「なあんだ、庶民食の柳麺ごときに・・・食が貧しいな・・・」などと思いつつ、店内のデップリと太った豚のようなコックが豚足を中華包丁でさばく様子を見ているうちに、やっと食卓につくことができた。
驚いたことに、ここ日本の中華料理は、柳麺と焼き餃子ばかりが異様に発達している。柳麺も白湯は中国に似ているが、異様に塩辛い。客人たちが冷水をガブガブと飲んでいるが、これでは胃液が薄まりよくないだろう。とりとめのないうちに食事を終えると、ハタと気付いたことに、日本の人民幣がない。私は風で足元に流されてきた葉っぱを拾うと、サッと円に変えた。図柄の「福沢諭吉」が、心なしか蒋介石に似てしまったが、ご愛嬌だ。
店を出た私は、いつものように金遁雲号で少し休もうと、車内で昼寝に興じていた。すると、背筋に何やら一筋の冷たいものを感じる。車を出て、その方向に歩いていくと、同業者たちが何やら眉をひそめ、3、4人で話し合っている。「ま~た、出たんだよ・・」「やっぱり、あんたもかい・・・このシーズンになると出るな、やっぱり」。私が近付いて事情を聞くと、青山墓地の近くで拾う客の中に若い女性の幽霊がいるらしい。
日本での仕事始めの割には一寸スケールが小さいが、衆生の心を惑わすとはいただけない幽霊だ。それにしてもここ日本の墓地は、どうしてこう街のど真ん中にあったりするのだろうか?こんな陰気の塊を陽気で暮らす生きた人間の真ん中に置いたらどうなる?故郷の中国では、死人の墓は、皆町外れの山の中腹にあったりするのだ。いわば陰気を避ける形なのだが、どうも風水の何たるかがまだ分かっていないらしい・・・
私がさっそくその晩、蝉の子守唄を聞きながら、青山墓地の大通りで金遁雲号を停めて待っていると、さっそくお出ましになった。細面の若い美しい女性で、伏せ目がちに「池袋まで・・」と言ってきた。座ったシートがグッショリと濡れている。陰気紛々たるものを背後に感じながら、明治通りを北上していくと、高田の馬場辺りから「早く・・・」とせがむので、金遁雲号のアクセルを加速させた・・・「加油!」・・・
すると、ほどなく金遁雲号は、高速走行で時空の裂け目に入り始め、辺りは真っ白な霧に包まれ始めた。池袋辺りに着いたときには、辺りは一面の霧世界で、幽霊さんが指示するビルに車は吸い込まれていく。入り口からは、地下へと駐車場が設置されており、ボーイさん二人が立って、午前1時頃になるだろうにモギリをしている。ふと見上げると、二人とも目鼻がないノッペラ坊だ。きっと生前に、美しい面で婦女子を泣かした罪業だろう・・・私が、「中国玉帝の手のものだ!」と言うと、アッサリ通してくれた。こういった世界の料金は全て「徳」で支払わなければならないが、神勅(しんちょく)があれば別だ。
この関門を通ると、車はゆっくりと約30度の傾斜で、薄暗がりの中を下の方に降りてゆく。途中「歓迎!地獄世界!」の看板、「以苦償還!」の文字が見えると、車はとたんに45度の傾斜で急降下し始める。
ほどなくして、夕暮れ程度の明かりがある世界に辿りついた。ふと後ろを見やると、まだくだんの女の幽霊は死んだように眠りこけて座っている。すると、左手に中華料理屋が見える。腹が減ったので、女を残して車を出て、地獄の料理屋に入ってみることにした。何やらいい匂いがするのは、人間界のそれと変わらない。
真っ赤な室内照明の店内に入ると、私はカウンターに席を取り、こちらに背を向けて調理している太ったコックに声を掛けた。「腹が減った・・何かみつくろってくれ!」すると、「ブヒ」と言って振り向いたのは、「豚のような人」ではなく、「人のような豚」であった。まるで、西遊記の猪八戒だ・・・。唖然として手元を見やると、人間の手足をさばいて「豚足」のように塩茹でにしている。
私はカウンター越しに吊るされている肉塊を見やると、それはアニハカランや牛や豚の肉塊ではなく、人間の胴体であった。人間が、「人のような豚」にさばかれている。ふと周囲を見やると、店内の客もまた、「人のような牛」「人のような豚」「人のような馬」が、人間の肉を旨煮にして、或いは塩茹でにして、美味そうに食している。
普通の人だったら、この辺で発狂しているだろうが、中国の山中で座り込んだ私には、この程度の恐怖ではまだ余裕があり大丈夫だ。いざとなったら、自身の五感を封じて神を守るからだ。私は呆れて店を出ると、途中道のあちこちで筍のようなものが見えたので、摘み取って帰ろうと思い、近付いて見ると、それは果たして、全てが人間の手であった。地中からは、顔を覗かしている者もあり、「苦しい・・・」と苦悶の表情で訴えている。一部肉が腐って、地表には異様な臭気も立ち込めている。
私は一旦、車に戻ることにした。すると、くだんの幽霊がいない。シートはぐっしょりと濡れている。私は、何か拍子抜けしてしまい、人間界に帰ろうと思った。そこで、金遁雲号を反転させるためハンドルを切ろうとしたのだが・・おかしい、ハンドルがロックして切れない・・・。すると、車はスルスルと坂道を勝手に降りていき、ある民家のような所で留まった。
車を降りて民家の中を覗くと、中はやはり真っ赤な照明だ。くだんの女の幽霊が屈託なく幸せそうに微笑んでいる。傍には、夫らしき若い男と男児も一人いる・・・地獄の中の暖かい家庭の団欒。この奇妙な光景は一体何だろうか?私が察するに、どうもこの女の幽霊は、家族に先立たれて後追い自殺をしたようだ。それで、あの世の入り口を探して彷徨っていたらしい。何てことはない!私は、幽霊の客人を乗せて地獄にいる家族の元まで運んで来ただけの話だ。これも徳積みだ。しかし、どうやってここから脱出しようか。坂の高い方へは、方向転換が利かない。下るのみだ。
意を決した私は、金遁雲号をフルスロットルで加速急降下させ始めた。「地獄の底を突き抜ければ、そこが活路だ」と思ったからだ。ほどなくして、ぐつぐつと赤い溶岩のようなものが煮えたぎる、噴火口のような「地獄の釜口」が見えてきた。私は迷うことなく、その噴火口のようなものに車ごと突っ込んだ。
ふと気がつくと、辺りはまぶしい位に太陽が容赦なく照りつけ、元の神宮外苑に戻っていた。車窓の外には、くだんの「日の出タクシー」の年輩同業者がこちらを覗きこんでいたので、手動で窓を開けると・・「おい、中国のエテコウの・・どうしたんだ、一年近くも見なかったけど・・」「いや、ちょっと長距離がカサミマシテ・・・」「いやぁ、この不景気に・・何とも羨ましいね。中国人の観光客相手かい?」・・・やっぱり、地獄の底は人間界に通じていたんだ!♪
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