【大紀元日本9月20日】楊貴妃、西施(せいし)、貂蝉(ちょうせん)と並んで、古代中国の四大美人に数えられる王昭君(おうしょうくん)は、荊州南郡(現在の湖北省沙市)の良家に生まれた。
幼少のころから賢く美しかった王昭君は、漢の元帝(紀元前75年~紀元前33年)の時に、選ばれて後宮に入ったものの、膨大な数の宮女の中で、皇帝にまみえ寵愛を受けるチャンスを得ることができず、悲嘆にくれうつうつとしていた。(注)
ちょうどそのころ、長年の敵国だった匈奴(きょうど:現在のモンゴル)の王・呼韓邪単于(こかんやぜんう)が漢に和睦の申し出を行い、その象徴として後宮から妻を娶りたいと申し出てきた。しかし、宮女たちはみな不毛の地にお嫁に行くのを嫌がり、選ばれるのを恐れていた。そんな中、王昭君が自ら嫁に行きたいと申し出たのである。その理由は、皇帝の寵愛を受けられる望みもなかったことから、自ら新しい道を切り開きたいと考えたのではないかとも言われている。
漢から妻を娶った呼韓邪単于は匈奴へ帰国することになり、最後の挨拶のために元帝に謁見した。その時、元帝は呼韓邪単于の横に立つ妻・王昭君を見て、唖然とした。息を呑むほどの絶世の美女が佇んでいたのである。元帝は王昭君を嫁がせるのが惜しくなったが、単于の手前、今更引き止めることもできず、やむなく彼女を匈奴へ送るしかなかった。
王昭君は、自ら願い出たとはいうものの、故郷を離れて遠い異国の地に嫁ぐ悲しさから、出発に際して、「出塞曲」を奏でて心の淋しさを表した。はからずも、通りかかった雁がその悲しい曲調に心を奪われ、飛ぶのを忘れて、次から次へと地面に落ちてきたと言われており、そこから後人は、「落雁」ということばで王昭君の美しさを形容するようになった。
王昭君は匈奴へ嫁ぐと、呼韓邪単于との間に一男をもうけた。しかし、嫁いで3年目に呼韓邪単于が亡くなると、匈奴の慣習に従って呼韓邪単于の正妻の子・復株累単于(ふくしゅるいぜんう)に嫁ぐことになった。漢族の慣習からして、それを嫌がった王昭君は、故郷に戻りたいと漢の成帝に上書したが、認められず、仕方なく復株累単于に嫁ぎ、二女をもうけた。
王昭君が匈奴へ嫁いだことによって、長い間紛争を繰り返していた匈奴と漢に60年余りに及ぶ平和がもたらされた。これは正に彼女の功績であり、後人は彼女を、両国の和睦の象徴として賞賛した。
王昭君のお墓がある内モンゴル呼和浩特(フフホト)市の「青塚」には現在、王昭君と呼韓邪単于がともに馬にまたがり、寄り添うように並んでいる像が立てられており、国境を越えた婚姻によって両国の友好の掛け橋となった王昭君を称えている。
(注)絶世の美女であった王昭君が、皇帝の寵愛を受けるチャンスがなかったことに関し、民間では次のような伝承が広く語り継がれている。
「漢の元帝は3千人もの美女を後宮に住まわせていた。あまりにも人数が多く、気に入った女性を選ぶのも一苦労だった元帝は、画工・毛延寿に女性たちの似顔絵を描かせて、美女を選んでいた。それを知った女性たちは、少しでも自分を美しく描いてもらうよう、毛延寿に賄賂を贈るようになった。気位が高く、高潔で自分の美貌に自身を持っていた王昭君は、卑劣な手段で皇帝に近づくことを潔しとせず、賄賂を贈ることをしなかった。決して媚を売ろうとしない王昭君に腹を立てた毛延寿は、わざと彼女をひどく醜く描いたため、当然彼女は皇帝からお呼びがかかることはなかった」。
民間伝承ではさらに、王昭君が匈奴に嫁ぐことになった理由を、次のように伝えている。
「元帝は、後宮にいる美しい女性を蛮族である匈奴に出すのは忍びないと考え、後宮の中でも一番醜い女性をあてがうことに決めた。そして、画工に醜く描かれていた王昭君の絵が皇帝の目に止まり、彼女が呼韓邪単于の妻に選出されることになった」。
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