大紀元時報
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≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(61)

【大紀元日本5月7日】私はなぜこのように冷静なのか分かりませんでした。養母はまだ私が逃げ出そうとしているのに気づいていないようでした。私が居間に入って養父に挨拶し...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(62)

【大紀元日本6月3日】私は養母が追いかけて来るんじゃないかと心配で、足を緩めることはせず、できるだけ速く走ろうとするのですが、走ればまた転んでしまい、全身泥だらけ...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(63)

【大紀元日本7月4日】このとき、私は急に弟の趙全有の家を思い出しました。私は養父に、河南の元々私たちが住んでいた趙源おじいさんの家へ行ったらどうだろうかと聞いてみ...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(64)

【大紀元日本8月21日】独りで身の拠り所を探す 養父は行ってしまい、私は一人残され、自分で沙蘭屯に入らなければなりませんでした。私はゆっくり歩きながら、この家に来...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(65)

【大紀元日本9月9日】風は次第に弱くなり、大雨もまた小ぶりになって、暴風雨が去ろうとしていました。夜が明けると、私は学校を離れ、川の南にある趙おばさんの家へ向かい...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(66)

【大紀元日本9月20日】趙おばさんは、当時たしかに私を娘にしたいと考えており、何度も趙に改姓するよう言いました。ただ、私は趙になんか改姓したくありませんでした。と...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(67)

【大紀元日本10月2日】しばし謝家に身を寄せ、中学に合格 大きな劫難がやっと過ぎ去り、私はまた絶望の中で再び謝家に戻りました。心を落ち着け身を寄せることのできると...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(68)

【大紀元日本10月10日】合格通知書が区政府に届き、区の教育担当助手が鐘家に報告に来てくれました。私は沙蘭地区の受験生の中でトップ合格でした。全科目満点の成績で、...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(69)

【大紀元日本10月21日】第五章 中学の時、孫おじさんと唯一の弟を亡くす「出自が道徳規準に勝る」という困惑に初めて直面する 1954年、寧安一中がちょうど建設され...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(70)

【大紀元日本10月25日】当時、私の前の席に宮崇霊という女の子が座っていました。彼女は勉強が遅れており、特に数学が良くありませんでした。時に私に質問することがある...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(71)

【大紀元日本11月5日】中学に入って間もなくして、私もこの「共産主義青年団」に入りたくなりましたが、自分が日本人の子供で、劉家は共産党によって「富農」とみなされ、...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(72)

【大紀元日本11月15日】この度の先生の話は、出身により私に思想的な問題があるという批判教育で、中学に来てから初めて聞くものでした。私は本当にその当時、その本当の...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(73)

【大紀元日本11月26日】私が入学して間もない秋、東京の町に住む孫おじさんが様子を見に来てくれました。冬を越す綿入りの服、綿入れのズボンを買いに連れて行ってくれ、...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(74)

【大紀元日本12月7日】二年目の夏休みになると、寮に残って帰省しない同級生が増えてきました。私と同学年の一年一組の劉桂琴がいました。そして私たちより一学年下の曹煥...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(75)

【大紀元日本12月22日】 中学で弟と再開 この年、私の弟である趙全有が第二中学に合格しました。第二中学の校舎は大きな川の辺にあり、私たちの第一中の学生寮の近くで...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(76)

【大紀元日本1月3日】私と弟は、水入らずで話すことはありませんでしたが、この目で弟を見ることができるだけで満足でした。弟が日を追うごとに成長するのを見て、ことばに...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(77)

【大紀元日本1月11日】 孫おじさんの死 再び「父親」を失う 私がちょうど中学三年に上がった冬のある日、孫おじさんが病気で牡丹江の療養所に入院しました。肺気腫で、...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(78)

【大紀元日本1月23日】 弟の悲惨な死 孫おじさんから亡くなったてからというもの、私は総じて喪失感に似たものにとりつかれ、精神が不安定になり、何をしても手につきま...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(79)

【大紀元日本2月3日】沙蘭はあたり一面真っ暗でした。すでに深夜になっており、明かりを灯している家はほとんどありませんでした。峰をおりる時、小走りに歩を進め、村に入...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(80)

【大紀元日本2月13日】趙おばさんはひとしきり泣くと、泣き止みました。そして、こう話しました。「全有は帰ってきた次の日に発病し、高熱を出したんだよ。病院の先生は、...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(81)

【大紀元日本2月19日】その時、私は溢れ出る涙を抑えることができず、弟に何を言えばいいかわかりませんでした。私は本当に多くの事を弟に聞きたかったし、多くの事を話し...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(82)

【大紀元日本3月2日】帰って来る道中、張小禄おじさんが私に言いました。「全有は、養母に殺されたようなものだ。もし養母が金を惜しまずに、医者に診せて注射でもしてやっ...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(83)

【大紀元日本3月7日】趙おばさんはこの時になって、私に養女にならないかと言ってきました。それは当時のように私を追い出すような口ぶりではありませんでした。私に懇願し...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(84)

【大紀元日本3月17日】 中学卒業と高校受験、趙おばさんの死 学校が始まった後、私たちは高校に進学するため、毎日勉強に忙しく、私はずっと沙蘭に帰ることができません...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(85)

【大紀元日本3月22日】私たちが中学を卒業した57年は、高校の受験は大変に困難でした。この年、中等専門学校は、牡丹江師範専門学校が2クラス学生を募集した以外は、一...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(86)

【大紀元日本3月29日】 一言では言い尽くせない高校での運命 高校に上がった後、私は1年1組に配置され、関桂琴は2組でした。中学で同じクラスだった孟沢繁と関莉民も...

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(87)

【大紀元日本4月4日】寧安一中の時に、孟先生以外で私の面倒をいろいろと見てくれたのは校長の王建先生でした。先生は、旧日本統治時代に東北地方の長春にあった建国大学の...

1944年3月、中国へ赴く直前の「長嶺八丈開拓団」=一番右側に立っている女の子が当時8歳の著者、その隣に弟を抱いた母(写真・著者提供)
≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(88) (第一部完)

【大紀元日本4月11日】文化大革命の間、王建校長はすでに異動していて、寧安一中を離れていました。しかし、寧安一中の教師の中には、王建先生を槍玉にあげて壁新聞を書き...

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