【紀元曙光】2020年7月23日

海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、かへり見はせじ。
大伴家持(おおとものやかもち)の長歌の一節である。『万葉集』の編纂にも関わった歌人として知られるが、家持は、父である大伴旅人(おおとものたびと)とともに政治家であり、代々武門の家系であるところが、後世の柔弱な平安歌人とは全く異なっている。
▼1300年ほど前の奈良時代。その前半の一時期、政治の中心は、藤原不比等(ふじわらのふひと)の4人の息子たちが掌握していた。武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)。藤原四兄弟と総称されるが、この4人がそろって737年の夏に病死する。天然痘であった。国政の中心にいた政治家が、すさまじい形相となって全滅した。
▼冒頭の歌の作者である大伴家持は、この時19歳ぐらい。まだ任官の記録はない。父の旅人はすでに亡かったが、家持は、ここから半世紀近く、政争の絶えない奈良朝を生き抜いてゆく。最晩年には、後の征夷大将軍に当たる「持節征東将軍」にまで昇進する。武官としては最高位であり、坂上田村麻呂より13年ほど早い。
▼「海ゆかば」の海から、想像が海原のように広がってしまった。今日は「海の日」という祝日らしいが、ウイルス感染拡大防止のため、外出自粛が再び叫ばれている。
▼時代は下って、昭和12年。作曲家・信時潔(のぶとききよし)が歌曲「海行かば」を作曲する。その曲が流され、また遺骨の帰還とともに歌われた時代は、不幸な時代ではあったが、歌曲そのものは傑作というしかない。