(前稿より続く)平清盛が夢みた福原遷都は、幻想と徒労に終わった。
▼同じ治承4年の末に、京都に引き揚げてくるのだが、この失政が国力を疲弊させたばかりか、それに従った人々も疲れ果ててしまった。京にあった家や建物を解体し、その材木を荷車で福原に運んで組み立てようとした。が、ほどなくして、また京に帰るという。再び持って帰ってきた材木を、また組み立てようとしても、もはや復元はできなかった。
▼この様子を、当時26歳の若き鴨長明は実見していた。晩年の『方丈記』に、嘆いて書いている。「伝え聞く。古(いにしえ)の賢き御世には、憐みを以て国を治めたまふ。すなはち、殿に茅葺きても、軒をだにととのへず」。
▼意訳「私は、こう伝え聞いている。古代中国の賢帝である(ぎょう)の時代には、人民を憐れむように国政が行われた。自分の宮殿は質素につくり、屋根に茅(かや)を葺いても、その端を切りそろえることをしなかった、と」。
▼古代中国における、堯(ぎょう)舜(しゅん)禹(う)といった帝王は、儒教思想のなかで理想的君主の象徴であり続けた。その業績を歴史学的に実証することは、不可能であり、またその必要もない。古代に理想社会があった、という神話が中国人の血肉に染み透っていることが肝要なのである。
▼このように日本の古典にも記されている中国伝統文化を完全に否定し、破壊したのが中国共産党である。その洗脳下にある現代の中国人は、このままでは、気の毒ではあるが未来へ生き残ることが許されない。平家の一門が壇ノ浦へ沈んだように、大淘汰されてしまうのだ。(次稿へ続く)