願わくは花の下にて春死なん、その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)のころ。
▼そんな西行(さいぎょう)の古歌を思い出している。如月の望月は、本来ならば旧暦2月15日を指すが、新暦が染み付いてしまったせいか、今日を同日と思ってしまう。新暦の今日では、春には遠く、風も肌寒いのは分かっているのだが。
▼新暦と旧暦の季節感の差を大まかに修正するには、新暦の月日から、ひと月半ほど先を想像すればよい。「如月の望月のころ」であれば、3月中旬から下旬の、まことに春らしい時期に当たる。花は、もちろん桜の花である。
▼「私の願いが叶うならば春の日、桜の花びらが散る下で、心静かに世を去りたいものだ。2月の望月のころに」。生前にそう詠んだ西行は、その願いの通り文治6年(1190年)2月16日に入寂する。人間の死期とは、このように自身で精密な予定が立てられるものかどうか、筆者には分からない。
▼ただ一つだけ言えることは、命の限り生きて、社会や他者のため些かでも役に立ち、与えられた歳月をその人なりに充実させることができれば、最終段階で「わが人生、悔い無し」という、安心(あんじん)の境地に至ることができるのではないか。
▼新型肺炎が蔓延する今の中国には、悲しみが麻痺するほど多くの、痛ましい事例があふれている。あるネット上の動画に、どこの病院かは分からないが、3人の幼児が一つの遺体袋に入れられて運ばれていく場面があった。人の死は、もちろん軽いものではない。しかし軽く扱われるとするならば、その社会自体が重篤な病なのである。