大紀元時報

渡航に5度失敗し、失明して愛弟子を亡くしても 日本へ律宗を伝えた唐の高僧ー鑑真

2019年04月06日 15時45分

紀元742年、唐の高僧・鑑真は第9次遣唐使船で唐を訪れた留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から、日本の朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、日本に渡ることを決意しました。その時、鑑真は55歳でした。

知られているように、鑑真は5回の渡日失敗を経て、6度目にして成功しました。ある時は同行の僧の密告や弟子の妨害によって未然に終わり、ある時は海に乗り出してから風浪にもてあそばれて難破、また、ある時は遠く海南島に流される労苦を味わい、日本にたどり着くまで、12年の歳月を要しました。

その間、鑑真は栄叡や弟子の祥彦(しょうげん)の死に会い、自らも失明する事故にも見舞われます。海路、陸上の旅で世を去った者は36人。望みを放棄して彼のもとを去った者は、200人あまりに及びました。

紀元753年に日本に来て以後、鑑真は76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごし、天皇を始めとする多くの人々に授戒しました。鑑真は日本の律宗の開祖として尊敬され、そして、日本の仏教の発展に力を尽くしました。

しかし、鑑真はなぜ命の危険を冒してまで海を渡ったのでしょうか。鑑真は当時、中国ですでに非常に高い地位を築いており、渡日しなければ、戒律宗(かいりつしゅう)では中国最高位に就くことのできる立場にいました。

12年かけた渡日のなかで、視力を失い、最愛の弟子を亡くし、大勢の人が去って行きました。鑑真はたくさんの困難に遭遇したことは、想像に難くありません。しかし、鑑真は諦めず、苦難に耐え、信念を貫き、不撓不屈の精神で日本にたどりつきました。

鑑真のその強靭な精神力の源、また、渡海の動機は何だったのでしょうか。

中国の伝統復興を掲げる神韻芸術団の短編劇には、次のような内容がありました。「黄金に輝く天の聖境に、飾り帯をはためかせて舞い踊る仙女を、神々は静かに見守ります。そこへまばゆい光が射し込み、創世主が到来されます。創世主が神々に自らの誓願を果たし、神の文化を人類に授けようと号令をかけるのです。その呼びかけに応じた神々が地上に降り立ち、壮麗な神伝文化を創り上げます」

もし、鑑真が創世主の呼びかけに応じて、天から下りてきた神のひとりだったとすれば? これは、渡日の謎をひも解く鍵になりそうです。

神の文化を人類に授ける使命を果たすため、鑑真は創世主の真意を受け、神の文化を日本へ伝授し、仏教の戒律を伝えました。そのため、鑑真は執念を燃やし、私たちが想像もできない精神的、肉体的な苦難を乗り越え、日本の地を踏みました。

仏教の戒律の他にも、鑑真は味噌や砂糖、納豆、そして中医学の知識や漢方薬、さらに建築、彫刻の技術も日本に持ち込んだとされます。さらに、柿の木の並木も鑑真の弟子が日本に伝授したとも言われています。

(文・一心)

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