江戸時代から意味が変化した日本語とは

『人無遠慮、必有近憂』(人、遠慮無ければ、必ず近き憂い有り)。これは『論語』の一節ですが、「人は控えめにしなければ、~」などと読んではいけません。「先々のことをよく考えておかないと、必ず近々心配事が起きる」ということで、ここの『遠慮』は、「遠き慮(おもんばか)り」という意味です。

中国語の『遠慮』は本来、この意味で使われたものであり、現代でも『深謀遠慮』の四字熟語にその名残りを留めています。

一方、日本語でも古くには、「遠き慮り」の意味で使われたのですが、江戸時代ごろから、「控えめにする」という今日の意味で使われるようになったようです。江戸中期の浮世草子に「恩にきる事も遠慮する事もなし」という例が、狂言に「遠慮なしにいふて見よ」という例が見られます。

では、「遠き慮り」と「控えめ」の接点は何でしょうか?遠い先々のことをよく考えるということは、衝動的には行動に移さないということであり、それをプラスに捉えれば、態度が控えめであるということにつながるのだと考えられます。ただ、控えめすぎると、「遠慮は無沙汰」ということで、かえって礼を失することになりますが。

なお、日本語では、「控えめ」義がさらに派生して、「断る」義が生まれました。「せっかくだけど遠慮するわ。私の好みじゃないの」などというのがそうです。この「遠慮」、孔子さまに果たして分かってもらえるでしょうか?

(智)