生涯にわたり、毛沢東と会うのを拒み続けた高僧(上)

120歳で逝去した虚雲禅師(きょうん ぜんし。1840年9月5日~1959年10月13日)は、近代中国第一の高僧として知られている。生前、中国の仏教界では声望が高く、数多くの弟子がいた。かつては蒋介石から大事な客として迎え入れられたことがあり、第二次世界大戦の終結を予告していたという。一方、彼は生涯にわたり、中国共産党の党首だった毛沢東との面会を拒み続けたと伝えられている。

虚雲和尚の『自述年譜』によると、彼が生まれた時、一塊の肉球の形をしていたため、母親は驚いて気絶し、亡くなってしまった。次の日、薬売りが来て肉球を切り開くと、男の赤ちゃんが出てきたという。この赤ちゃんが、後の虚雲和尚である。清の時代以降、虚雲和尚は世に知れ渡る高僧となった。

史料によると、対日戦争中の1942年12月9日、中華民国の主席・林森氏の要請を受け、虚雲和尚が法主を勤める「護国息災大悲法会」が慈雲寺と華岩寺で同時に行われ、49日間続いた。

当時、中華民国の政府要人の多くは虚雲和尚の門下に帰依していた。法会の期間中、蒋介石は彼に対日戦争と第二次世界大戦の戦局の行方を尋ねたという。

蒋介石の思わぬ質問に、虚雲和尚は直ぐには答えなかった。彼はしばらく考え、内隠しから紙を取り出し、はさみを付き人に持ってこさせ、紙を切り始めた。すると、三つの文字が現れた。一つはきれいな〝十〞(イタリアの十字軍)一つは〝卍〞(ドイツのファシスト)もう一つは中国領土を侵略し、攻撃を続ける日本の〝日〞という文字だった。

虚雲和尚はしばらく考えて、口を開いた。「対日戦争に勝利した後、中国には違う状態が現れる」。蔣介石は戸惑った様子で、どんな状態になるのかと聞いた。虚雲和尚はじっと黙って、二度と答えなかった。まさに彼の予告通り、三年後、イタリアが最初に無条件降伏し、ドイツも敗戦を認めた。日本も降伏条約を締結した。その後すぐに国民党と共産党の内戦が勃発し、1949年に終息した。

一説によると、共産党が政権を握った後、毛沢東が虚雲和尚を武漢に呼び寄せようとしたが、断られた。虚雲和尚は、「昔から法王は人の王より上である」と言ったという。彼は毛沢東に帰依を求め、南華に来るようにと言ったが、結局実現しなかった。その後、虚雲和尚は毛沢東と会うのを拒んだだけでなく、中国共産党(以下中共という)が創立した「仏教協会」の会長職も断った。

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(翻訳編集・紫蘇)