【本音を生きる】パッションジャパン(株)代表取締役 杉浦達雄さん(上)気づき、変化、脱皮の人生

掘っ立て小屋から東京へ

東京の千駄カ谷にある「大人の寺子屋」では、青々とした紅葉が窓外に見え隠れした清楚な空間だった。6人掛けのテーブルは、会議室とはほど遠い、和風インテリアで統一されたくつろげる場を生み出していた。

東京生まれ。父は脱サラをして住職となった「宇宙僧」。人気のある住職でファンも多かったが、寺を二軒立てるなど手腕を発揮したことが仇となり、八丈島に左遷。家族で移住した。杉浦さんが5歳の時だった。掘っ立て小屋のような寺に来る人の数も限られており、母が役所で働き生計を立て、三人の子を育てた。

—八丈島ではどのような生活でしたか?

正直言って私もよく分からないけれど、父はいつも嬉しそうでした。

父には常に「自分で考えて決めろ」と言われながら育ちました。親からの制約や要求が全くなかったためか、逆にストイックな人間になりました。『宮本武蔵』が好きで、「弱い自分はダメなんだ」と思い込み、「ここで今、負けるとだめだ」「ここで食べると俺の人生は堕落する」と自分を叱咤激励していました。

父からは何も言われませんでしたが、自分で「このままじゃダメだ」と考え、一念発起して東京の高校を受験し、島を出ました 。

—学生生活についてお聞かせいただけますか?

島育ちの劣等感を克服するためにラグビー部に入り、その後、大学でも続けました。足を痛め、走れなくなり、タックル専門に転向。生き方を変えざるをえなくなった体験でした。

商社から寺修行、そしてパッション・ジャパンへ

—そして 商社に就職されたんですね。

はい。日商岩井に就職しました。世界を見てみたい。日本を背負うような人々と一緒に働きたいという純粋な気持ちでした。

仕事をする中でカウンセリングを学ぶようになり、人の話に耳を傾けられるようになったことは大きな収穫でした。

中国に派遣され、この機会に半年の旅に出ました。車をチャーターしてシルクロードを回ったとき、日本人の中学生二人が馬車で旅をしていました。しかも、その馬の一匹は死にかけていたんです。 これでは無理だと忠告したのですが「これで行きます」という返答でした。

これは大きな衝撃でした。 「俺はここで何をやっているんだろう?」という気持ちが湧き上がり、自分もバスに切り替えてチャレンジしていくことに決めました。

八丈島での本来の自分、原点に気づかせてくれた 瞬間だったと思います。

日本に戻ってから、人事に思わず本音を言ってしまったんです。中国に送り込んでおいてなんでここに?みたいに。結局、特に仕事を与えられないような部署に配属され、リサイクリングビジネスを立ち上げて成功はしたのですが、まだ法的にグレーの部分だからと、整理の対象になりました。

—そして転職…

そうですね。「自分はこんなにダメなのか」「なにか挑戦できないか」と思い、当時一番しんどいといわれていた企業再生のコンサルティング企業、プラウドフットジャパンに転職しました。30歳代初めのことでした。

ここではタガが外れたという感じでした。商社では言わなければいけないことを言ってはいけない、という環境でしたが、企業再生の場では、感じていることや思っていることを言わなければいけない。「なんかおかしいんじゃないの」とズケズケ言うようになりました。

企業再建の力になるためのターンアラウンド・マネージャー(TAM)として、寝る間もなく働きました。短期間で経営を黒字に転換し、業績を週単位で示してコンサルタント料をいただくというしくみでした。5年で15社くらい担当したと思います。

—そして再び脱皮…

ええ。多くの会社を再生させ、企業は復興するけれど、世の中は元気になっていない。自分の生きている世界が息づくためにも、自分本来のものを見つめたいと思い、退職して京都で一年、寺修行に入りました。しかし、寺修行では、閉鎖社会での荒廃を目の当たりにしました。

この頃、「宇宙僧」の父が癌になり、この人はいったい何をしたかったんだろうかと自分に問うようになりました。これまでのような企業再生でなく、個人を相手にした、大人の寺子屋「パッション・ジャパン」を創設しました。

多くの人は自分がやりたいことと、人からこうしてほしいと思われていることが一致していません。そんな人たちに「やりたいことと、やっていることが違うよ。どうするの?」と、ショートセミナーや個人的なコーチングを提供してきました。

続く 【本音を生きる】パッションジャパン(株)代表取締役 杉浦達雄さん(下)心の時代へ

(文・鶴田ゆかり)